この技術経歴は、当時の一般的な技術背景等を含んで、読み物風にまとめたものです。
★ 私が入社した1953年頃は、戦後の復興期であり、戦災の廃墟の跡に工場建設の槌音が響いた時代です。千代田化工建設のような、プラントの設計・建設を行う企業を、エンジニアリング企業と呼んでいます。ただし当時エンジニアリング企業は、わが国には、ほとんどありませんでした。
★ 千代田化工建設は、全社的に、三菱石油川崎精油所復興の建設工事を行っていました。当時は会社全体で200名ぐらいの小企業でした。
★ 早速三菱石油の工事現場に配属され、計装の仕事に従事しました。
★ 所属は工事部電気課でした。同課は、電気と計装の仕事に関しては、見積もり、設計、資材手配から現場工事まで、一手に担当していました。私は、同社の最初の計装関係専門技術者として、入社しました。
★ 当時プラントは主にアメリカからの技術導入で、計装の技術もそれに付帯して導入されました。私にとっては勿論のこと、会社にとっても新しい事ばかりでした。当時は、わが国全体にとっても、プロセス計装草分けの時代でした。
★ 翌1954年に、呉羽化成工業のプラント設計・工事の仕事が入りました。千代田化工建設にとっては、石油以外のプラントとしては、初めての大規模工事でした。しかも国産技術の仕事です。計装に関しては、企画から設計、現場工事にいたるまで、すべてを私が主担当しました。
★ 建設現場は、福島県の錦(勿来の関の近く)でした。当時の化成品工場として、最も計装化、自動化が進んだプラントを、作り上げることができました。
★ ただし、後から見れば、いろいろ至らない点がたくさんあります。
★ その後は、本社勤務で、同社の計装関係全般の取り纏めを行いました。多数のプラント計装設計を手掛けました。またプラント完成時には、プラントの試運転があります。多くのプラント試運転に参加して、プロセス制御の実際技術を磨くことができました。
★ 会社全体の規模も大きくなり、計装関係の仕事の比重も高くなって行きます。計装も独立した組織になり、1960年には、計装部になりました。同時に計装関係の研究を行う研究6部が研究所に設置されています(両方を兼務)。
★ わが国全体にとっても、計装の発展期です。とくにプラントの計装化、自動化は他の分野に先駆けて進んでいました。
★ プロセス制御の技術は、単に自動制御の技術だけでなく、制御対象であるプラントの特性を定量的に把握することが必要です。プラント計装の実務の中で蓄積した、これらの技術を、1962年に単行本の形にまとめて出版しました(著書化学プラントの計装)。
★ コンピュータが発明されたのは、1945年のことです。最初は軍事用でしたが、やがて民需用の開発が進みます。1958年頃には、アメリカでは、ビジネス用の需要が多くなり始め、エンジニアリング企業では、設計業務にコンピュータを使い始めていました。わが国では、大企業がコンピュータの導入を開始した頃です。
★ 千代田化工建設では、いち早く、設計計算を主体に全社的なコンピュータを導入することとしました。1960年にBA委員会をスタートさせ、具体的な計画に入りました。コンピュータ導入のために設置したBA委員会の幹事として、この仕事に取り組みました。
★ 当時のコンピュータは真空管時代でした。検討を重ね、機種の選定をほぼ終えたとき、新しいトランジスタ式の機種が発表になりました。急遽再検討して、この最新式のトランジスタ式コンピュータを導入することにしました。
★ さらに機械計算室として、導入の準備と、プラント設計用のプログラム作成を主管しました。プラント設計のプログラムは、化学工学部分のプログラムと、機械工学部分のプログラムとに分けられます。このうち、化学工学部分のプログラム作成を、担当しました。
★ そして1962年に科学計算用コンピュータIBM1620が導入されました。エンジニアリング企業としては、日本最初のコンピュータです。当時としては、会社として大事業であったわけです。しかし今にしてみれば、パソコンよりもはるかに性能が低かったのです。隔世の感があります。
★ 導入も引き続き、プログラム開発に従事しました。
★ 1960年からは、計装技術に関する研究開発も、手掛けるようになりました。千代田化工建設では、早くから研究所を設けていました。その1部門として発足しました。そして、1966年頃からは、研究開発に専念するようになりました。独自の研究開発も勿論進めましたが、他社との共同研究も行っています。
★ 先にも述べたように、プロセス制御の技術は、単に自動制御の技術だけでなく、制御対象であるプラントの特性を定量的に把握することが必要です。このプラントの特性は、定常状態を対象にする「静特性」と、時間変動を問題にする「動特性」とに分けられます。
★ 制御の問題では、動特性が重要です。実務上は、各種動特性を把握することが重要であり、そのためには、まず動特性測定法の確立が必要です(論文「プロセス動特性測定法の比較」)。
★ プロセス制御用の計測制御機器(工業計器)は、当初は、空気圧を信号伝送に使用した、空気圧式計器が使用されていました。やがて世の中はエレクトロニクス時代を迎え、工業計器は電子式になります。そして、さらに制御へのコンピュータ導入が始まります。
★ 研究開発の対象も、コンピュータ応用の制御が多くなります。外部への発表は、他社との共同研究に限定されます(「最適化制御のプロセスへの応用について」三菱電機と共同、「DDCのフィールドテスト」三菱石油・北辰電機と共同、「蒸溜塔の最適制御」富士電機・富士通と共同)。
★ 日本システム工業を作ったのは、私の友人(私は学生時代ラグビーをやっていましたが、そのとき共にプレイした友人)です。あるとき、私を千代田化工建設に尋ねてきました。「あるアイデアをもとに製品を発明したが、用途が分からない。どこに売ったら良いのかも分からない」というのです。
★ 内容を聞くと、画期的なアイデアです。私は「将来的には、石油・化学の工場でも使うようになるだろう。しかし、現在考えられる需要は製鉄所だろう」と答えました。
★ その友人は早速、第1号機を開発して製鉄所に納入しました(1972年)。私が仲立ちしてシーズとニーズとを結びつけた訳です。これがわが国、そして世界最初の LAN です(当時はLANという言葉はありませんでした)。
★ 製鉄所は広大な敷地です。その中を、kmオーダーの長さで1本のケーブルを引いて多数の端末機を接続し、相互間を高速で伝送する。
★ 現在のLANでは当たり前の技術ですが、当時は想像を絶することでした。当時はすべて個別の配線でした。最初の製品の伝送速度は約20kbpsで、現在から見れば低速ですが、専ら150〜300bpsが使用されていた時代です。
★ 友人は、さらに、幾つかの製品を受注しました。友人は私の協力を求めていました。私は、従来とは異なる新しい技術に乗り出すことに強く引かれ、転職を決意しました。1973年に日本システム工業に入社しました。千代田化工建設は約20年の在職でした。
★ データハイウェイの名が知られるようになると、大手のコンピュータ・メーカ(通常大手電機メーカでもある)が、複数参入してきました。データハイウェイは、日本システム工業の商品名でしたが、一般名称としても使用されるようになりました。
★ 当然他社との競争になります。技術的にも、これらを引き離して行かなくてはなりません。伝送速度も、短期間で100kbps、1Mbpsとエスカレートしました。
★ データハイウェイは、製鉄所のコンピュータ・システムの中で使われます。幸いなことに大手鉄鋼メーカは、技術力が高く、コンピュータ・システムをまる投げ発注しませんでした。システム設計を自社で行い、使用する製品を適材適所で選定して発注していました。
★ 競争相手のコンピュータ・メーカが、データハイウェイを作っていても、日本システム工業製が採用されました。
★ しかし1975年頃からの不況で、状況が変わりました。当時は不況でも、製鉄会社は、設備投資をかなり行う必要がありました。しかし、コンピュータ・メーカの売り込み競争は、極めて激しいものでした。
★ コンピュータ・メーカは、コンピュータ・システムを一括して発注して貰えれば、大幅値引きをするという条件を出します。この値引き金額が、データハイウェイ価格より桁が上です。これでは、受注することができません。
★ このような状況から、大手各社と競合しない製品を開発する必要がでてきました。もっと簡易な多重伝送装置、エコーラインを開発しました。
★ この頃、マイコンが発明されました。最初のマイコンは、4ビットのインテル4004でした。次いで8ビットマイコン8008が発売されました(8008はその後、8080、8085そしてZ80へと進んで行きました)。早速マイコンを、データハイウェイのインターフェースとして組み込むことに、目をつけました。マイコン利用自体が本当に珍しかった頃です。
★ これをもとに、インターフェースに、マイコン(8008とは別の機種)を組み込んだ、データハイウェイの新機種を開発しました。その後、これを汎用マイコン・システムの形にしました。